ブログは10会続いた。
私にとって、これは非常にめずらしいことだ。
なぜなら、私は怠惰のカリスマであり、口癖は「めんどくせぇ」と「ダリぃ」である。

ある人がその人の日常の行為から考えられないようなことをすると「雨が降る」と言われる。
このような話には、似たものが沢山ある。
たとえば、「猫が顔を洗ったら明日は雨が降る」や「ツバメが低く飛んだら明日は雨が降る」だとかである。

その中に、有名な「ナマズが暴れたら地震が起きる」と言うものがある。
ただの迷信とも言われるが、聞くところによると、このようなナマズが暴れれば式の予測を集めた中国の地震予測の方が、日本の科学的な地震予測より当たるそうである。

このことは、古来から伝わる迷信と言われるものの一部には妥当な推論を助けてくれるものもあると考えて良いことを教えてくれるものではないだろうか。

もしも、このような未来の予想を助けてくれるようなものを集め、場面場面で巧みに使いこなすことができたなら、我々はもっと正確に未来を予測し、人生を順風満帆の体で歩んでいけるだろう。
私はそう考えた。
それゆえ、常に

「誰かのお役に立ちたい!」

と考えている私は、私の持っている知恵を役立ててもらうために、みんなに提供しようと思う。

私が提供できる知恵は、みんなも薄々感じてはいたが「できることなら認めたくない!」と感じるような知恵だ。
認めたくないがために同じ過ちを繰り返す傾向があるので、是非ともこの知恵は伝えておきたいと思う。
その知恵はこのような経験則である。

「宝くじを買ったら、それはその宝くじが外れて買ったことを後悔することの前兆である」

これはみんなも納得できないだろうか。
宝くじを買って、当たるはずもないのに「当たったら車を買おう!」とか「当たったら赤い羽根を全身を着飾ろう」とか考えたことがあるだろう。
そして、外れた時のショックを軽減するために、当たるはずないと自分に言い聞かせながら新聞で当選をチェックし、案の定外れ、ショックを受けられたことだろう。
買ったことを後悔されたことだろう。
当然、私も宝くじを買い「当たったらユニセフに寄付しよう!」と夢を膨らませたりした。
そして、宝くじが外れ、恵まれない子を救ってあげられない自分の不甲斐なさを責めた夜もあった。
むしろ、一度の電話で沢山の子供が救えると熱弁する山口達也に土下座したい気分でいっぱいになった。
しかし、この法則さえ知っていれば、このような惨劇は二度とくりかえされることはないだろう。

ただし、ここで急いで付け加えなくてはいけないことがある。
それは法則にしばられて柔軟な発想を殺してしまってはいけないということである。
なぜなら、法則には例外がつきものだからである。
私の法則はかなり正確だ。
だが、例外があるかもしれないこと、このことだけは頭に留めておいてほしい。
その点、デキる男である私は聡明だ。
法則を活用しつつも法則にとらわれない柔軟な発想を持ち合わせている。
なにせ、私は今年のサマージャンボが例外にあたるかもしれないという可能性を見落とさない。
よって、可能性を見おとすことのない私は、年末ジャンボを買うつもりである。
もちろん、デキる男だあるがゆえ、当たった場合にそなえて都内の新築デザイナーズ・マンションに引っ越す計画を立てるなど準備にもぬかりはない。
昨日、ダッチワイフについて書いた。今日も引き続きダッチワイフについて書く。

昨日はダッチワイフに見る「ものづくりの魂」を紹介した。
今日は、ダッチワイフと人間のドラマを紹介したい。

まず、最初に紹介するのは、一般的には単なる「物」と思われがちダッチワイフに惜しみない愛を注ぐ人のドラマ。
ダッチワイフと共に暮らす、無骨な男のなにげない日常、そのなにげない日常の隅々にまで、男のダッチワイフに対する深い愛が満ちている。
そんな、有機物と無機物を隔てる壁を越えた愛の物語に、人は「愛」という感情の力強さ、偉大さ、そして切なさを目の前に突きつけられることになるだろう。

いい尽くされた言葉より 心に残る この物語を…… このブログはこれまでに僕が1度も読んだことのなかった種類のブログです。そしてどうしても1度読みたかった種類のブログです。これは純愛ブログです。ひどく古ぼけた呼び名だと思うけれど、それ以外にうまい言葉が思いつけないのです。激しくて、物静かで、哀しい、100パーセントの純愛ブログです

次に紹介するのは、ダッチワイフとの出会い、そして、ダッチワイフを理解し、そのことによって成長していく青年の物語。
偶然か運命の悪戯か、ひょんなことからダッチワイフと出会うことになった青年。
青年はその出会いに戸惑いつつも、ついにダッチワイフと一線を越えることになってしまう。
ダッチワイフと一夜を共にしてしまったことに苦悩しつつも、そこから、愛が見せる真実の側面を見出し、彼は一歩前へ歩み出す。力強く……。

出会い編
合体編
今週のR25を読んでいたら、興味深い記事に出会った。

その記事は『男たちを熱狂させるレース、「ダッチワイフ急流下り」とは!?』というものである。
内容はタイトルの通り、ロシアでダッチワイフを使って急流を下る「バブル・ババ・チャレンジ」という競技大会が開催されたとのことである。しかも、この大会、ダッチワイフで急流を下ることを競うのみではなく、自らの愛機の美しさを競うデザインコンテストまである模様。

すばらしい。

我々、人間は自由な発想の種を持ちつつも、惰性からか、ついつい従来の思考の枠組みにとらわれて物事を考えてしまいがちである。ところが、このロシアの大会では、卑猥なイメージを貼り付けられ、一つの用途の檻に閉じ込められてしまっていたダッチワイフという製品を自由な発想という鍵で釈放している。そして、スポーツ用品・芸術品という領域まで昇華させている。

さすが広大な国土を持つロシア、発想もデカい。
その発想の素晴らしさに敬意を表し、一言。

「スパシーバ!」

さて、ロシアが生んだ素晴らしい発想を紹介させていただいたのだが、我らが日本はいったいどうなっているのだろうか?
「日本人は創造的な発想が苦手である」という容疑をかけられているように、本当に日本人は自由な発想ができないのであろうか?

いや、日本人だってロシア人に負けていない。
日本だからこそできるロシアとはまた違った創造性があるのである。
ここに、「日本人は創造的な発想が苦手である」という容疑を簡単に吹き飛ばしてしまう証拠を挙げたいと思う。

まずは、黙って見てみてほしい。
そして、感じてほしい。
日本の発想の創造性を……。

きっと、はっきりと感じ取ることができるはずだ。
そして、感じ取ることができたならば、
日本が「ものづくりの国」であること、いや、むしろ「ものづくり大国」であることがわかるはずだ。
ここには、日本の「ものづくり」の魂が満ち溢れている。
→ものづくり大国の証明
こんな凄いロボットが存在していたとは……。
日本の技術が生み出した、日本が誇るギネス賞ロボット。
その名もパロ(左写真)
日本人として、このような素晴らしいロボットの存在を知らなかったの恥ずかしい。
しかし、ついついパロ様には失礼な話なのではあるが、

「はぁ?オマエ本当に凄いの?」と言ってしまいそうになる。

しかし、人と同様に見た目でロボを判断してはいけない。
注目すべきなのはスペックなのだろう。
一目瞭然で「さすがギネス級」い言わざるを得ないようなスペックに違いない。

● 新型パロ(第8世代)のデータ

モデル: タテゴトアザラシの赤ちゃん(カナダ北東部に生息。マドレーヌ島沖の氷原で生態調査を実施)

体長 57cm、体重:2.7kg

毛皮: 人工、オフホワイト、抗菌糸
CPU: 32ビットRICSチップ
センサ: ユビキタス面触覚センサ、ひげセンサ、ステレオ光センサ、マイクロフォン(音声認識、3D音源方位同定)、温度センサ(体温制御)、姿勢センサ
静穏型アクチュエータ まぶた2つ、上体の上下・左右、前足用2つ、後ろ足用1つ
バッテリー: 充電式、ニッケル水素、1.5時間稼動(満充電時)
充 電 器: おしゃぶり型
行動生成: 様々な刺激に対する反応、朝・昼・夜のリズム、気分にあたる内部状態の3つの要素から、生き物らしい行動を生成。新しい名前を学習したり、なでられると気持ちが良いという価値観から、なでられた行動が出やすくなる学習をおこなったりし、飼い主の好みに近づいていく。


……あまり凄さがよくわからん……特に充電器。

ただ、このロボット、何がギネス級なのかと言うと、「癒し」の効果がギネス級なのだそうだ。
おそらく、AIBOと同じような役割のロボットなのだろう。
しかし、AIBOが一見して「お主、できるな!」と感じさせるのに対して、このロボットは写真で見る限り、何一つ凄い感じを受けない。むしろ、なにかショボそうな印象さえ受ける。いや、本当はただのぬいぐるみなのではないかとさえ思う。

しかし、あえて「お主、できるな!」感を隠し、相手をリラックスさせることができるから、ギネス級の「癒し」が可能なのかもしれない。
「能ある鷹は爪を隠す」とは、まさにこのこと……。
さすがギネス……。


ロボットと言えば、合体ロボに限るわけなのだが、今回のロボットは合体しないロボットなのが残念だ。
愛の対象、憧れの対象と合体する。
合体の理想系である。
チンタラ合体してるのではダメなのである。
なぜなら、合体してる間に敵にやられてしまうのである。
ということなので、拙者も高速で合体することを目指したい。
高速で合体することを目指す拙者は、今回、この記事を三分で書きたいと思う。
記事を三分で書くという決意表明が内容の記事を三分で書きたいと思う。

書く内容がないのだ……。

残念ながら、時間のようだ。



とりあえず、今日は合体失敗。
勉強させていただいた。

あたかも猫のような鋭い眼光。
あの眼差しだけで、殿が只者ではないことがわかりますぞ。


上様の場合、「殿中猫」でございましょうのう。
合体が好きだ。
三度の飯より合体が好きだ。
昔からロボットと言えば合体ロボに限ると思っていた。

と、書いてはみたものの……

ごめんなさい!

ウソつきました。

今回、ブログを書くにあたって「合体が好きだ」ということにしてみた。
「ロボットと言えば合体ロボに限ると思っていた」過去を無理やり創作した。

それというのも、これからチンタラこのブログを書いていこうと思ったのだけれども、いかんせん普通の大学生である私には専門に書き綴っていくようなテーマがない。専門的に書く内容もないから、日々、雑文を垂れ流すタイプの形態のブログにならざるを得ない。
となると、タイトルは二つのタイプに限定されてしまうのではないかと思う。
一つ目のタイプは『○○の日常』や『○○日記』というようなタイプ。
二つ目は、「英語やらなにやらで自分がカッコいい・素敵と思っている言葉がタイトルだけど内容と、そのタイトルは無関係だし、そのタイトルがカッコよければカッコいいほど、素敵であれば素敵であるほど内容とはかけ離れてるよね」という『なにかしらの素敵ワード』タイプ。

もし『○○の日常』や『○○日記』というようなタイトルをつけてしまった場合。タイトルから予想される通りに「日々の気持ちを文章という器に盛り付け、あげくの果てに公開までしちゃうonly oneな素敵な私のための自意識爆発しちゃってるブログ」を生産するという事態に陥りかねない。

一方、『なにかしらの素敵ワード』タイプのタイトルをつけてしまった場合。読者から見て「書き手の貴方は、そのタイトルが素敵だと思ってるんだね」ということがタイトルからわかるが、それ以外のことはタイトルからはわからず。もし仮にタイトルが相手にも素敵だと思われたとしても、その素敵なタイトルが導き出す予想に反して、「日々の気持ちを文章という器に盛り付け、あげくの果てに公開までしちゃうonly oneな素敵な私のための自意識爆発しちゃってるブログ」を生産するという事態に陥りかねない。

どちらの場合にしても、どうしようもないものを生産してしまいそうな気がする。
ということで、無理やりテーマを決めてみることにした。
そこで「合体」ということになったのである。

では、なぜ「合体」なのだ?
と、自問自答してみてところ。

「う~ん。もう、その辺ってイキオイなんじゃん」
と自分は、お答えになられた。

しかし、当然、普通の大学生である私は、「合体」の権威でもなんでもないので、合体について書く内容などない。
何一つない。

しかたがないので、これから何を書くにしても無理やり「合体」というテーマにこじつけて書こうと思う。
その、こじつける過程で面白くなったら「これ幸い」である。

そして結果的に、「日々の気持ちを文章という器に盛り付け、あげくの果てに後悔までしちゃうonly oneな素敵な私のための自意識爆発しちゃってるブログ」を、無理やり「合体」にこじつけて生産するという事態に陥るつもりである。




なにはともあれ、今日は合体失敗。